死んでもお水が欲しいな
火葬場から帰ったご遺族が、玄関先で渡された塩を肩先に振り、死の穢れを落とします。洗面所の水で手を洗い、まだ暖かい骨箱を後祭り段にそっと安置します。線香と蝋燭の火をともし、手を合わせます、ご主人を送ったばかりのお婆ちゃんが急に立ち上がりました。
「たいへん、たいへん、お水を忘れていた、おじいちゃん、熱かったから喉がカラカラでしょう。いまお水を持ってくるから、ゆるしてね。ゴメン、ゴメン」
お婆ちゃんはグラスになみなみと入れたお水を、そっと祭壇に置きました。
人間の身体には多量の水が含まれています。成人で体重の60%、子供で70%、新生児はなんと90%が体液とよばれる水分で出来ています。つまり体重70kgの成人ならば42リットルもの水分が体内にあるのです。まさに人間は水で出来ているのです。
看取りを多く経験している介護老人病院の看護師さんが話してくれました。
死期が近づくと患者さんは水を取らなくなるそうです。人間は水を飲まないと4日程で死んでしまいます。体内の水が不足して脱水症状を起こすのです。この症状をおこすと体温を調節する汗が出なくなり体温がどんどん上がりますし、尿が出なくなるため老廃物が溜まり血液の流れが悪くなります。最後は全身の機能が障害を起こし死んでしまいます。
運動などで動かなくても、皮フの表面と吐く息で1日に約1リットルの水を失い、1.5リットルの水が尿で出ていきます。したがって計2.5リットルの水分が1日ごとに失われていきます。知らずに身体から出ていく水が4日間で10リットル、これで死にます。
水を飲めなくなった患者さんに無理に口から飲ませると誤嚥性肺炎を起こします。体液バランスを保つために点滴で生理食塩液やリンゲル液の細胞外液補充液を無理やり注射します。死期の近づいた身体は輸液を受け付けず、皮下にパンパンにたまり吸収されずにむくんできます。ブヨブヨに膨れた身体で苦しむそうです。それでも臨終の患者さんは最後に「お水が欲しい」といって亡くなる方が多いと伝えてくれました。
これほど人間にとって大事な水ですから、お葬式の儀式にも水にまつわることが多くあります。皆様が思い当たるのが末期の水(まつごのみず)でしょう。息を引き取った故人の口元を水で潤す儀式です。昔はまだ死ぬ前の臨終の時に死に水をとると言われて、飲ませていたようですが、今は、納棺式の時に行うことが多くなりました。
末期の水の由来は諸説ありますが、最期を悟ったお釈迦様が喉の渇きを訴えた際に信心深い鬼神が水を捧げ、これによりお釈迦様は安らかに入滅できたという話です。死に行く者に喉を潤して安らかに旅立ってほしいとの想いが末期の水にこめられています。
あちらの世界は水を飲むことが必要なくなるそうです。思い残さぬよう、十分に水を飲ませてから、冥土に旅立たせたいとの願いもあります。
「おじいちゃん、火葬炉は熱かったねえ、これから、毎朝、冷たいお水をあげますね」
帰り際に祭壇を確認しました。お婆ちゃんが急いで持ってきた時より、グラスのお水が少し減っているように感じました。遺影写真のお顔が微笑んでいます。