おくりびとの日記

数多くの仏様を成仏させた「おくりびと」が、お葬式の出会いを綴ります。終活の参考になれば幸いです。

お葬式に寺は必要なのか

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の声とチーンと鳴る鐘の音、ポクポクと歌う木魚。お葬式のイメージを質問すると、ほとんどの方がこのように答えます。実際9割が仏式の葬儀で執り行われています。檀家の数を数えると日本人の大多数が仏教徒になります。しかし仏教徒なのに、お葬式でお寺様を呼ばなくなってきています。


「私は仏教いや宗教をすべて信じていません。お葬式に寺は必要ではありません」こう宣言をされる喪主様も着実に増えています。お寺に懐疑的な方が多いのです。


確かに御経を聞いても何を言っているのかさっぱり理解できず、きらびやかな衣装で数10分祭壇の前に座っているだけで高額なお布施を払わなければいけません。意味の無い時間に何十万も払うと考えるだけで馬鹿馬鹿しく思われるのでしょう。


それでもお葬式になるとお寺にお願いするのは、葬儀が見栄のイベントだからです。親戚や参列者の手前、お寺がいない儀式は可笑しいと言われるのが嫌なのです。何よりも世間体を気にするのです。ですがこのままでは仏式の葬儀は無くなります。


葬儀に従事している者として、持ちつ持たれつのお寺が無くなるのは悲しい事です。
そこで皆様に提案です。宗教の必要性は置いといて、お寺の視点を変えてください。


お寺が祭壇の前で行うパフォーマンスは伝統芸能なのです。歌舞伎や能、狂言と一緒です。何百年も続いてきた仏式葬儀のあり方は、長い年月で作られ、守られ、受け継がれてきた芸能なのです。伝統芸能なら守っていくべき対象だと思うのです。


祭壇の前に座るだけで作り出す厳粛な雰囲気は、僧侶という人間でしか出来ません。袈裟という豪華な衣装も舞台を作る大事なアイテムです。素人には理解できない時間を過ごしても最後に味わうホッとした安堵感と、故人に尽くしたとの満足感を全員で味わえるのです。


お布施はこの雰囲気を味わう時間のチケット代なのです。


日本人が考え出した伝統芸能ならば、日本人として守っていきたいと願うのです。このままでは不要だと判断され廃れていき、最後に無くなってしまうのは残念です。
お葬式の喪主を務めるのは人生で1回2回あるかどうかでしょう。伝統芸能を守るためにお葬式の時にお寺様を呼んでみませんか?
必ず、素敵な舞台を見終わったような感動と、亡くなった人にここまでしてあげたとの、達成感が味わえるはずです。


お寺は必要ないと単純に言い切る前に、視点を変える方が出てくると嬉しいです。お寺様からは、我々は宗教者であって、芸人ではないと反論されることは、重々承知です。


毎日、葬儀の現場をお手伝いしながら、やはり仏式葬儀は守っていかなければならないと感じています。確実に少なくなっている、お寺呼ばない葬儀の将来に不安を感じ、思うままにつづったブログです。皆様はどう思われますか?

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