家族で違う悲しみの程度
「やれやれ、やっと死んでくれた」火葬炉に入っていく棺を見送った奥様がポツリと呟いた一言でした。当然、周りの人には聞こえないように小さな声の囁きでしたが、一番傍に居た葬儀屋の私の耳には、届いてしまいました。炉の中に吸い込まれていく棺桶の中には長期の寝たきり生活を送った「姑」が眠っていました。死去迄の日々は、三食のご飯を食べさせ、排泄物を綺麗に始末し、夜中の不眠状態、日中の喚きや罵声などの、凄まじい介護生活があったようです。夫の母親と言うだけで、すべての介護を一人で背負い、自分の時間を削り、尽くした最後の見送りの言葉が、冒頭の「やれやれ、やっと」と言う、つい漏れた本音だったように感じました。
ひとりの人を送る時に、家族はそれぞれの立場で悲しみと向き合います。配偶者を送る片割れ、親を送る子供、その子供も長男、長女で捉え方は違いますし、兄弟姉妹などの育った立場の違う子供で悲しさも違うのです。家族との死別の悲しみには個人差が大きく、その想いや程度は人それぞれで、なおかつさまざまなのです。
母親を亡くした60代の男性は、葬儀後にさみしそうにこう話してくれました。「集まってくれた家族、親戚、友人ご近所などの周囲の人が全員『母の死は大往生だったね、寿命をまっとうしたね、羨ましい死に方だね』と言いました。90歳でしたから周囲の人言う通り大往生だったと思います。しかし、大往生の言葉には『なにか死んでも当然』と聞こえたのです。90歳だからと言っても、私には『死んで当然』とはどうしても思えないのです。私にとってはたったひとりの母でしたから」高齢の方のお葬式によく使われる「大往生」は近しい人が使う言葉であって、家族であっても参列者である他人が簡単に口にする言葉ではないのです。
二人姉妹のお姉さんが打ち明けてくれました。「母が亡くなったお葬式なのに、なぜか妹は平気そうなのです。生活も今まで全然と変わらないと言っています。母は死んでもういないのに、何故悲しくないか解りません。妹と母の話をしたり一緒に泣いたりしたいと思っていたけれど、これでは出来ません。妹のほうが母にかわいがられて育ってきたのに、薄情だと思います」姉妹でも気持ちを共有できないことが、別れの悲しみをさらに深めているようでした。
家族だからみんな悲しさは一緒ではありません。一人ひとりの感情や想いに違いがありませんが、捉え方は確実に違います。他の方とは悲しみの程度が違うのです。自分の気持が他人に理解されないことは、よくあるケースなのです。目の前の現実を受けとめきれず、何も感じないような感覚となる人もいます。
悲しみ方に正解はありません。同じ経験をしたからといって、抱える感情は家族が全員同じではないのです。あなたの悲しみは「あなただけの悲しみ」であり、ほかの人には十分に理解されない時もあるのです。
自身の気持ちの中にある、別れの悲しみだけを認めてあげるのです。自分の気持ちを大事にしましょう。どのように悲しみに向き合うのかは、これからの人生をどう生きるのかに通ずると思います。生き方に正解がないのと同じように、悲しみにどのように向き合うかも正解はないのです。