娘さんと父だけの母の日
抑えた音楽が流れる中、父と娘の二人は、真っ赤なカーネーションを、一つ一つお顔の周りに置いていきました。通常、お棺に入った仏様の顔周りには、白い菊の花が置かれます。お顔周りを、真っ赤なカーネーションに飾られた、目を閉じた母親は、輝いて見えました。
母の日はアメリカから伝わった風習です。1905年5月9日アメリカのフィラデルフィアに住むアンナと言う少女が母の葬儀で「生きている間にお母さんに感謝の気持ちを伝えたい」と働きかけたのが始まりです。この運動がアメリカ全土に広まり、1914年に当時の大統領ウィルソンが、5月の第二日曜日を「母の日」と制定して国民の祝日となりました。最初は日本では3月6日を「母の日」としました。昭和6年に結成された大日本連合婦人会が当時の皇后(香淳皇后)の誕生日の日を母の日にしたのです。明治時代末期から行われた母の日を、1949年から日本もアメリカと同様に5月の第二日曜日に制定されました。アンナは白いカーネーションを追悼式の祭壇に飾りました。そこから、母が健在であれば赤いカーネーションを、亡くなっていれば白いカーネーションをとの風習も生まれました。
享年40歳、仏様は若い母親でした。 立礼で喪主のご主人の脇に、小学校4年生の娘さんが並びました。 前日納棺に伺うと、仏様の枕元に真っ赤なカーネーションの花束が置いてあります。 とても大きな花束でした。この時期のカーネーションは高価になります。一瞬「随分高かっただろうな」と値踏みをする下世話で不埒な考えが頭をよぎりました。
「綺麗なカーネーションですね」と、静かに尋ねました。
「去年の夏の終わりに、全身の癌が見つかり、余命3ヶ月を宣告されました。クリスマスまでは頑張ろう、お正月までは頑張ろう、節分までは頑張ろう、ひな祭りまでは頑張ろう、と本人は闘ってきました。 今度は母の日まで頑張ると言っていましたが力が尽きてしまいました。この大きな花束は娘が一人で買ってきました。貯めたお年玉で買ってきたようです。母の日に間に合ったよと、伝えたかったのでしょう」
「明日、お棺に入れてあげましょう」
お別れの時間です。棺の蓋を開けた私は、花束をほどき、お花の部分を黒盆に載せ、喪主様とお嬢様に差し出しました。お二人は、真っ赤なカーネーションを、一つ一つお顔の周りに置いていきます。 泣き声はありませんでした。ですがカーネーションの上に、お二人の目からポタポタと大きな涙が落ちています。
父と娘の手は、お互い、きつく握られていました。 その後、御親族が祭壇のお花で棺をいっぱいにして、蓋が閉じられました。 火葬後、お骨上げ、法要と済み、喪家様をお見送りの時間です。
うな垂れて歩く父親の前を、正面を向いて背筋を伸ばし車に向かって行く、気丈な娘さんがいました。胸にしっかりと母親の骨箱を抱いた後ろ姿を見送りながら、 ……頑張ってください…… と、心の中で叫んでいる、私がいました。