喪主の奏でるバイオリン
出棺前の静まりかえった館内に流れたのは、亡くなったご主人への愛と感謝の気持ちを音色に託したバイオリンの響きでした。バイオリンは不思議な楽器と言われます。演奏する方が変わると楽器の音がガラッと変化するそうです。同じ楽器でも演奏者が弓の毛を当てる弦の場所が数ミリ変わるだけで音色が変わります。圧力がほんの少し変わっても音色が変わります。弦の押さえかただけで音色が変わります。ピアノと違い演者によってまるで違う曲のように聞こえる不思議な楽器なのです。
ご主人が不調を訴えて病院に行った時お医者様は「末期の癌でもう対処療法しかない」と宣告しました。入院中の唯一の願いは「家に帰りたい」。「帰ったら命の保証は難しい」とも言われましたが、終末期になんとか一時帰宅が認められました。久しぶりの家のベッドで休まれたご主人の望みは「君のバイオリンが聞きたい」だったそうです。今回の喪主である奥様はバイオリン教室の先生です。亡くなったご主人は奥様が奏でる暖かく柔らかなバイオリンの音色が大好きだったのです。
いつものように弾き始めました。突然ベッドの上のご主人が急に苦しみ始めました。演奏を止めた奥様は「このままでは死んでしまう」と恐怖にかられました。何か訴えるご主人の脇で奥様は救急車を呼んでしまったのです。病院のベッドで臨終を迎えたご主人の最後の言葉は
「バイオリンを……」だったそうです。
あの言葉は「バイオリンが好きだ」「バイオリンを続けて」「バイオリンを愛して」だったのか、それとも「自分の苦しむ姿を見てもバイオリンを止めないで弾き続けて欲しい」だったのではないかと今ではとても悩んでいると話された喪主様でした。
お葬式で、ご主人の愛したバイオリンの音色でお見送りをしたいという奥様の願いでした。出棺前の御礼の挨拶の後、バイオリンを弾く思いを伝えた喪主様はバイオリンを構えました。弾き始めます。ところが感極まったのでしょうか、演奏が突然止まります。その時参列者の中から間髪を入れずにその曲の続きが流れてきました。
お葬式当日は奥様だけでなくバイオリン教室の生徒さん達が集まりバイオリンを演奏することになっていました。皆さまの間で「喪主の演奏が途中で止まったら直ぐに続けて引き継げるよう準備してよう」と話し合いが行なわれていたようです。
生徒さん方の演奏に励まされるように、喪主様のバイオリンも再び音色を奏で始めます。全員のバイオリン演奏が会場中に流れます。旅立つご主人のために、喪主を務める奥様が選んだ曲はご主人への愛が込められていました。曲調が優しく響きます。参列者の悲しみを包むようなバイオリンの哀調の音色に弔問の皆様の心が動かされます。会場全体がコンサートホールのような暖かな時間に包まれました。
「帰宅の時は動転して最期まで演奏できなくてゴメンナサイ。旅立つ前に好きだったこの曲を最期まで心を込めて弾きます。あちらで再会するまで待っていてね」
喪主様の愛情と感謝の気持ちを込めた演奏は必ずご主人に届いています。そして生徒さん方の応援の音色も聞こえたはずです。弔問席の間をジュール・マスネ作曲による歌劇「タイス」で演奏された「タイスの瞑想曲」が流れています。間もなく出棺のお時間です。