どの死に方が幸せですか
認知症の患者が多く入院している病院から、お爺さんを引き取りました。葬儀会館に安置して着替えをさせると、両手首に縛った後がありました。手足に拘束の跡があるご遺体は珍しくありません。認知が進みベッドの上で暴れて、手が付けられない状態とか、一日中徘徊して介護が出来ないなどで、最終的に縛り付けられたと思います。家族には見えないように、手首に包帯を巻き白装束の袖を伸ばして手を組ませました。
長期の延命治療を受けた患者さんのご遺体にも拘束の後が見られることがあります。およそ9割の人は病院で死にますが、まず安らかには死ねません。延命治療技術が発達しているのでベッドに何か月も縛り付けられたままの状態で死を迎える人が沢山います。病院で死ぬことは、自由のきかない環境で死ぬということです。鼻にチューブを突っ込まれ、胃に穴を開けられ、尿道に管が繋がれ、紙オムツが穿かされます。それを取り除こうと、もがくと手足をベッドに拘束ベルトで固定され、指が使えないようにミトンをつけらます。
こんな入院状態になったとき、患者が感じていることや思っていることは周囲にはわかりません。意思表示が出来なくなっていることは意思が無いということではありません。最後の時を病院で迎えることの怖さは、本来「老衰」で自然死できたはずの人が、楽に死なせてもらえず「拷問」を受ける怖さです。今の日本では、終末期に一旦病院に運び込まれたら最後、幸せな死に方はまずできません。
誰もが望む幸せな死に方とはどのような最期でしょうか。
まず死に場所では「家で死にたい」自身の希望と「家では死なせたくない」家族の要望がせめぎあいます。ほとんどの家族は終末期の病人を入院させます。終末医療とは栄養を必要としなくなり、枯れるように亡くなる状態の自然で楽な死に方をさせず、無理やりチューブで身体に次々と栄養や水分を送り込む処置です。寿命を迎えた入院患者は死ぬに死ねない状態で苦しみながらベッドで数か月も生き続けるのです。
死に時の希望を聞くと、ほとんどの人は「できればポックリと死にたい」「穏やかに死にたい」と答えます。
先日のテレビでは「積極的安楽死」と「消極的安楽死」を取り上げていました。極的安楽死というのは、安楽死を望む人に薬物を投与して確実に死なせる行為です。医師による自殺幇助でこれは犯罪です。だからと言って人工呼吸器をつけないとか、栄養輸液をしないで自然死を促すという尊厳死と呼ばれる消極的安楽死は病院では不可能です。
最高の死に方とは、寿命まで長生きをして、苦しまず枯れるように身体が弱っていき、最期は眠るように静かに呼吸が止まり、自宅の自分の布団にくるまれて冷たくなり、その後、子供や孫やひ孫に囲まれ、すべての家族と関係は良好で、心から悲しんでくれている、お葬式をあげてくれる死に方です。
しかしこれだけ揃う人は、まずいません。
このような最期は間違いなく最高の幸せな死に方です。